歴史

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佐久地域の歴史/文化/信仰とお酒

現在の佐久地域の田園風景や、13蔵がお酒造りをする地となってきた歴史の流れをご紹介します。
佐久の地と稲作

長野県佐久地域は、活火山の浅間山をはじめ、蓼科山、八ヶ岳、奥秩父連峰など数多くの山々に抱かれ、その山々からの清らかで豊かな水が千曲川の流れとなり、南から北へ縦貫している平で肥沃な地です。佐久地域では、紀元200年頃から稲作を中心とした農耕の営みがあったとされており、この営みは現在まで脈々と受け継がれています。

稲作と自然信仰

稲作などの農耕が営みそのものであった古代では、人は、自然の恩恵によって生かされていて、太陽にも、山にも川にも、水にも土にも、石や木にも、森羅万象に神が宿っているという自然信仰(アニミズム)を土台にした神道が根付いていました。信仰は、稲作の営みと深く結びつき、米などの作物は、神様からの授かり物だと考えられていました。

身近な神様

神道では、氏神、お米などの作物の神、火や水の神など、人々にとって神様は身近な存在でした。神道の神様は、人間社会にいろいろな働きかけをします。作物が豊作になったり、子宝を授かったり、これによって暮らしは豊かになりますが、神様も働きっぱなしだと、力が衰えると考えられていて、衰えた神様の力を甦らるためにお祭りを行います。

祈り(お祭り)とお酒

お祭りでは、神様のお食事として穫れたての作物などをお供えし、五穀豊穣と健康や安全を祈ります。このお供えで重視されているのが、米と、その米から作られるお酒でした。人々は、お祭りで神様が食べたもの、神饌を分け与えていただくことで、活き活きと暮らすことができると考えいて、お酒もお祭りの時だけ飲める特別なものでした。

灌漑と稲作の拡大

中世から戦国時代にかけて、平地から山間地まで河川など水のある場所に徐々に水田が広がり、人々が暮らす場所も同時に広がっていきます。江戸時代を迎えると、浅科地区の五郎兵衛新田に象徴されるように、治水や灌漑技術の向上により佐久地域でも開拓や新田開発が盛んに行われ、人口の増加とともにお米の生産量も増加していきます。

日本酒文化の隆盛

商業が盛んになった室町時代を迎えると、鎌倉時代に誕生した造り酒屋が一気に増加します。江戸時代には醸造技術の向上があり、お酒造りが隆盛に。お祭りなど、神様とのコミニケーションの場にあったお酒が、広く一般的に飲まれるようになります。この江戸から明治時代にかけて佐久地域でも多くの酒蔵が創業しました。

13の酒蔵

現在、佐久地域は13の酒蔵がある全国有数の酒どころです。13の酒蔵それぞれが、哲学やこだわりを持ち、八ヶ岳・蓼科山・浅間山と多様で清らかな仕込水で、この地域の風土に寄り添いながら、高い技術で個性のある美酒を醸し、多くの地元の人々に愛されています。